父が再婚したと聞いたのは高校生の時のことだった。
私が幼い頃に両親は離婚しており、以来母子家庭で育ってきたため、正直なところ父に関する思い出は希薄である。だから、その話を聞いても特に思うことはなかった。
それから時は流れ2018年、私・父・再婚相手の女性の3人で食事をする機会があった。なぜそんな話になったのか覚えていないが、焼肉をおごってくれると言うのでホイホイとついていったのである。初めは気まずさもあったが、父の再婚相手のYさんは気さくな方で、すぐに打ち解けることができた。
その焼肉屋で、Yさんがかつて某有名映画監督が館長を務める美術館で働いていた、という話になった。
「へー! その美術館なら僕も小さい頃よく行ってましたよ」
「そうなんだ。でも私はすぐ辞めちゃったから」
「なんで辞めちゃったんですか?」
「監督とケンカして、ラスクを投げつけて辞めた」
「そりゃ傑作だ(笑)」
酒の席でのことだったし、私もけっこう酔っていたのでその時は深掘りしなかった。そもそも2年も前のことなので、この会食のこと自体すっかり記憶の奥底に埋もれていたはずだった。
だが最近になって、フラッシュバックのように唐突にこの時のYさんの発言を思い出した。
どういうこと???
言っておくとこの「監督」とは、どんなに映画に疎い人でも絶対に名前は聞いたことがあるであろうレベルのマジの大物監督である。一体、そんな監督とYさんの間に何があったというのだろうか。
というわけで、2年越しにこの話の真相を確かめるべく、Yさんに連絡を取って詳しい話を聞かせてもらうことにした。
インタビュー:
Yさん
私の父の再婚相手で、あの有名映画監督にラスクを投げつけた張本人。
現在はガラス作家をやっている。
●美術館入社の経緯
───よろしくお願いします。本日は、Yさんが昔勤めていた美術館でのことについてお聞きしたいんですが。
「はい、なんでしょうか」
───以前お会いした際、その美術館に勤めていた時に某有名映画監督にラスクを投げつけたとおっしゃっていた覚えがあるのですが、これは本当なんですか?
「本当です」
───本当だった……!
「正確に言えば、まず先に監督にラスクを投げられたので、私も投げ返したんです」
───あ、監督が先だったんですね。それにしても、なぜそんなことに?
「まず前提をお話しすると、私はその美術館の、カフェスペースのオープニングスタッフだったんです。もう20年近く前のことですね」
───ということは、元々は監督のファンだったんですか?
「いや全然」
───ファンじゃないのにそこのオープニングスタッフになる人っているんだ。
「当時私はパティシエをやってたんですけど、その時の師匠にあたる人が美術館の関係者と知り合いで、それで引き抜かれたんです」
───まあ確かに、ファンだったらラスクは投げつけないですよね。それで、そのカフェはどういう職場だったんでしょうか。
「そこは『お母さんが子供たちに作ってあげるようなご飯を出したい』っていうのがコンセプトで。だからスタッフも、普通の店の味にしたくないっていう理由で私たち以外は全員未経験者だったし、材料もかなりオーガニックにこだわってたんです。とにかく、オーガニックにできるものは全てオーガニックだったので」
───20年前でそれはかなり新しいですね。
「でも私は美味しければいいじゃんっていう考えだったので、全然興味はなかったです。じゃあなんで入ったんだって話だけど」
───そういうのは実際に働き始めるまで知らなかったんですか?
「私の師匠は知ってたそうですけど、自分のやり方をどうにか押し切れると思ってたらしくて」
───コンセプトに賛同したわけではなく。
「そうです。結局、オーガニックのものって安定供給ができないんですよ。彼はそれじゃあ商売として成り立たないでしょって上に言ってたらしいけど、それは聞き入れられなかったそうです」
●多忙な職場とすれ違い
───実際にカフェがオープンしてからは、どのような状況だったんでしょうか。
「当時はまだプレオープンの段階だったんですけど、それでも1日に1200人くらいお客さんが入ってたんです。でも発注が追いつかなくて材料は足りなくなるし、スタッフも経験者じゃないので手際が良くなくて」
───なかなかうまくはいかなかった?
「はい。だから経営サイドからは怒られるけど、監督はコンセプト通りにやれと言う。私の師匠は師匠で、客は帰せないからって勝手に知り合いに材料を発注しちゃうし……もうめちゃくちゃでしたね。立場的に私は板挟みで、私一人がすごく殺伐としてた」
───それは大変ですね……。
「他のスタッフも私のことを怖がってたし、厨房はかなりピリピリしてましたね。多分その頃には監督も、何か様子がおかしいということは気付き始めてたんじゃないかと思います」
●ラスク論争、そして裏切り
───そういう積み重ねの果てに、監督にラスクを投げつけるという事態になったんですか?
「そうですね。そのラスクは売り物ではなくて、コーヒーの付け合わせで出すサービスだったんですけど、厚さとか形がちゃんと決められてたんです」
───そんなところまでこだわってたんだ。
「でも実際にはわざわざラスク用に生地を作る余裕がなくて。カフェの店長は『サンドイッチを作る時に出る食パンの切れ端をラスクにしていいよ』って言ってたので、ずっとそうやって作ってました」
───まあ仕方ないですよね。
「で当時、終業後に監督がふらっとカフェにやって来て、コーヒーを飲んでいくことがあったんです。それである時、そのラスクをコーヒーと一緒に出したら、そこでぶちっときたらしく。なんだこのラスクは、と始まったんです」
───指示通りにやってないじゃないか、と。
「カフェスタッフ全員が集められて、客をなめてるのかって話になって。だから私は『いや、店長がこれでいいって言ったので』って話したんです。そしたら店長が『僕は何も指示してない。Yさんが勝手にやった』って言い出して……」
───最悪だ。
「おいおいと思ったけど、監督はもう私に怒りの矛先を向けてて。お前ふざけてんのか! ってラスクが飛んできたので、私もうるせえ! ってラスクを投げ返して、そのまま辞めました」
───すごい話だ……その後カフェはどうなったんでしょうか。
「結局その一件で私たち経験者が辞めてしまったので、予定通りオープンはできなかったみたいですね。中には私のことをかばって呼び戻そうとしてた人もいたそうですけど、監督はとにかく私のことが気に入らなかったらしい」
───でもよくあの監督に歯向かえましたね。言っても巨匠なんだし、会社の上司にキレるのとはちょっと訳が違うと思うんですけど。
「ああ……でも私にとっては巨匠じゃないし。ただの雇い主でしかなかったので」
───そこまで割り切れるのもすごいですね。
「でも他のスタッフはみんな監督のファンというか、それこそ監督の映画から出てきたような純粋な感じの子ばかりだったから……その中に私みたいなのが混ざってたら、向こうも相当嫌だったろうとは思うけど」
●退職、その後
───なるほど……ちなみにYさんは美術館を辞めた後、何をされてたんですか?
「その後はしばらく地に潜ってました」
───地に?
「この一件で人間不信になって、働けなくなってしまって。しばらく病院にいましたね、アル中になって」
───アル中!?
「やっぱりあの時店長に、目の前で裏切られて責任をなすりつけられたのが耐えられなかったんです。これがきっかけでお菓子の仕事も辞めちゃったし、師匠とも疎遠になって」
───そんなにショックだったんですか。
「一応退職金としてけっこうな額のお金をもらったんだけど、そんなお金を残しておきたくもなかったので、それも全部飲んでしまい……アル中というか、今で言うところのうつ病とか引きこもりのような状態が1、2年続きました」
───思ってたより壮絶な話だった……興味本位で話を聞きに来たのが申し訳なくなってきたな。
「今となっては笑って話せますけどね。あとそのカフェも、今は色々なことが改善されてきちんと回ってるそうですよ。いろいろ話し合いをしながら、できる範囲でやっていきましょうっていう風に変わったんだと思う。まあ当時は、みんな未熟だったから」
───開館当初はみんな手探りだし、余裕もなかったんでしょうね。
実際にラスクを作ってもらう:
そして今回は、事前にお願いしてその時のラスクを再現して作っていただけることに。
「まさか20年後に作ることになるとは……数奇な運命ですね」
材料はこちら。
・サンドイッチ用食パン(12枚カット)
・牛乳……100cc
・無塩バター……90g
・素精糖……280g
※前述の通り本来なら全てオーガニックの食品を使っていたそうだが、今回はスーパーで買えるもので代用している。またパンは厚さが約1cmのものを使用しているが、本当はもっと薄かったとのこと(専用の機械でカットしてたらしい)
まずは食パンを1/4にカットし、前日のうちに冷凍しておく。
続いて、牛乳・バター・素精糖を鍋に入れ、弱火にかけながら溶かす。
牛乳・バター・素精糖が溶けてよく混ざったら、鉄板に並べた食パンに刷毛で塗っていき……
180℃に熱したオーブンで20分焼けば完成!
───20年ぶりに当時のラスクを作ってみてどうでしたか?
「今はパティシエじゃないので全然楽しくできたんですけど、当時20代で尖ってた頃は、ラスクを作るっていう屈辱に耐えられなかったのを思い出しましたね」
───そんなに嫌だったんですか。
「元々フランス菓子のような綺麗なものが好きでパティシエになったので、なんでこんな地味なものを仕事で作らなきゃいけないんだってずっと思ってました。まあ私の考えが良くなかったと思うけど」
───確かに対極ですからね。
「今ならそういうものの良さもわかるけど、当時はわからなかったなあ……」
〜20分後〜
───そろそろ焼き上がりそうですか?
「そうですね……あっ!!」
───どうしました!?
「ちょっと焦げちゃった」
───監督が見たらキレて投げるかも。
実食:
───おいしい! 監督も一口食べれば投げなかったろうに……。
「そうですかね」
───このラスクのレシピ、「☆あの有名監督に投げつけた手作りラスク☆ 」っていう名前でクックパッドに投稿してもいいですか?
「☆で囲えばいいってもんじゃないのでやめてください」
●監督の作品について
───Yさんは美術館を辞めた後、監督の作品を観たことはあるんですか?
「一応何本かはありますよ。克服しようと思って映画館に観に行ったり、テレビでやってるのをたまたま観たり。でもまあ、こういうの作るんだね、くらいにしか思わなかった」
───そんなもんですか。
「あ、でも一本だけすごいなと思ったのはあった。今年の自粛期間中に観た作品なんですけど、今の時代に必要というか……何十年も前にこれを撮った想像力たるや、とは感じましたね」
───好きな映画になりましたか。
「うーん……すごく印象に残った作品ではあるけれど、『好きな映画は何ですか?』と聞かれたら名前は挙がらないかもしれない。元々考えさせられるようなものがあまり好きではないので」
───ちなみにYさんが好きな映画って何なんですか?
「基本的に邦画を中心に観てますけど、今一本挙げるとするなら『コンフィデンスマンJP』の劇場版です」
●現在──20年前を振り返って
───それでは最後になりますが、今から当時のことを振り返ってどう思いますか?
「そうですね……まあ、若かったねえ、とは思います。当たり前だけど今の年齢ならやらないし。でも、あの出来事を通してちょっとはまともな人間になったのではないかなと」
───というと?
「それまでは仕事ができさえすればいいと思ってたので。会社っていうのは、仕事ができる人もできない人も色々な人が集まって成り立ってるのに、そういうことが私は全くわかってなかったんです。だから、なんで頑張って生産性を上げようとしてる私が怒られなきゃならないんだってずっと思ってた」
───協調性がなかったというか。
「まさにそうで、小さい頃からずっと協調性がないって言われ続けてたんです。でもあの一件があってさすがに自分と向き合わざるを得なくなり、そこでようやく協調性とか、人と仲良くやることを覚えたって感じですね」
───じゃあ後悔はしていない?
「はい。まあその後はアル中になったりしたけど、結果的にはまともな人間になったし、少しは人の気持ちもわかるようになったので、今となっては良かったと思いますよ」
───どんな出来事からでも人は成長できるんですね……今日はありがとうございました!
最後に:
「父の再婚相手が、有名映画監督にラスクを投げつけたことがあるらしい」
このインパクトあるフレーズを聞き、初めは興味本位で話を聞きに行ったのだが、そこから見えてきたのは思わぬ人生模様だった。
「映画監督にラスクを投げつけた」というエピソードは、そこだけを切り取ればポップでコミカルだ。しかし、人生はギャグ漫画のように単純ではない。ラスクを投げつけるまでには様々な事情があって、ラスクを投げつけた後も人生は続いていく。当たり前のことだが、詳しく話を聞かなければ意識しなかったことだ。
もちろん、こういう珍事件を笑い話として聞くだけでも楽しい。でも、もう少し深く突っ込んでみることによって、ただ可笑しいだけではない人の営みの妙味のようなものを垣間見ることができたと思う。
今後、あの監督の作品を観返すたびに、私はこの日のラスクの味を思い出すことになるだろう。その圧倒的な才能に、一人反逆を示したパティシエがいたということを私は忘れない。